ドキュソOi一座の親方 (POGO 77 RECORDS)
いままでにリリースしてきた作品の中で買って良かったなと思うものが無い、プロフェッショナリズム(他人様から金をとる資格)に欠ける稀有なレーベルです(苦笑)。誰もができるものだったら、別にお金を取って見せる必要はない。誰もができないことをして、人からお金を取って見せるには、どこかしら命懸けの部分が無ければ認知されないと思う。関西のThe GriffinとかLRFといったバンドたちは、楽曲についても、英語の歌詞についても金も頭も使って、修行と言えるほどのことをやっているものなのだ。押韻も知らずに英語で歌うとか、義理人情で作品を出してやっているようではどうしようもないだろう。能がないのに爪を立てるのは、最悪の恥さらしになる。
拙い日本語で、危機感が全然感じられない「Not Union Goddamn Club (仲良しクラブ)」日記をダラダラ垂れ流しているのは何のメリットがあるのでしょうか? その危機意識がないというのは、まさに危機だよ。パチンコで勝っただの負けただの、パンクが「子育て日記」なんて拍子抜けしちゃうよ。結局、日本のパンク・シーンというのは、人間関係が過度なまでに濃密で、常に序列とか力関係といったものに気を配って生きて行かねばならず、阻外されることが何より怖いという「ムラ社会」であり、コネと情実に基づく人間関係でしかないということなんだね。そして、バンド関係者が傲慢かまして威張っている、全体主義で中央集権体制の『DOLL』を中心とする、消費者が批判をすると暴力で恫喝・脅迫して潰しにかかる「恐怖政治」でもあるわけだ(失笑)。
Pogo 77は、「恐怖政治」を容認する「全体主義・言論弾圧パンク」だと取られても仕方ないだろう。ムラ社会に生きる日本人は、自分の出来ないことをやった人間を集団で攻撃することで、自己満足を得る。自分では理由がわからないままに、誰かをとにかく攻撃したいわけだね。でもその理由は、単純明快、劣等感からくるただの「妬み」なんだよ。日本人の考えることに理屈はない。日本人は、妬み、嫉み、恨みで動くだけなんだ。どんな集団にも派閥があるが、これは他人をイジメ、自らをイジメから守るための組織だ。イジメは本能であり快楽なのだ。
NOFXのFat Mikeや元Dead KennedysのJello Biafraが聞いたら飽きれると思うぜ。全部英語に翻訳して世界中の良識ある人々に懇願しようかな〜(笑)。「日本のパンクは恐怖政治です。言論の自由がありません。中国や北朝鮮と同じです。狂ってます。助けてください」ってね。"Rock Against Pogo 77 Records"とかいう運動になったら面白いけどさ(苦笑)。
今は情報化の時代、グローバリゼーションの時代で、情報も今までのように自分の国だけにとどまっていないで、瞬時にして世界に広まっていく。倫理観を持ってレーベルをやっていかないと、不祥事もたちどころに世界中に伝わる環境になってきたわけで、レーベルの受けるダメージもはるかに大きなものになります。
Oi!/SkinheadとCrustを区別できずに混同している、それらの間を行ったり来たりしているのは、筋金入りのPower of IdeaさんやBattle of Disarmさん達から見たらどう映るのでしょうか。某Super Head Magazineに・・・こんな中途半端な輩が大きな顔をして毎回掲載されているのは、いかにネタが不足しているか、日本のシーンも、そこまで落ちぶれているということですね(失笑)。まるでPogo 77が『DOLL』のロボットに成り下がってしまった。とにかく、『DOLL』との癒着は、見苦しいし、みっともないから今すぐ辞めたほうがいいよ。メディア・ファシズムに荷担している奴らは「パンク」でも何でも無い。努力もしないでコネだけで成就しようとする、その魂胆が寄生虫だと言っているのだ。
私はパンクは反体制だと思っていた。反体制だとすれば、最大の敵は体制ですよ。だから最大の敵は『DOLL』じゃなきゃいけない。
おまえがパンクだって?
吐き気がするぜ
『DOLL』と癒着して
提灯記事を大量生産するおまえ
メディア・ファシズムはパンクじゃないぜPogo 77というのはタコツボ型の思考と行動である。自分の関係する組織や仲間内の世界に閉じこもることである。代表的なタコツボ型人間がPogo 77である。居心地のいい『DOLL』は住み心地がいいから、長年の間に知らず知らずにバンドを『DOLL』症候群にしてしまうから要注意である。自分の仲間内のことだけを考えていればいいので必然的にタコツボ型になる。
これは競争原理が働く世界とそうでない世界の違いである。バンドやレーベルは『DOLL』と癒着して提灯記事を大量生産する。完全な腐敗と堕落である。日本広しと言えども、これほどの無競争社会はない。日本のパンクはタコツボ型人間になる可能性が高い。島国の閉鎖社会の宿命かもしれない。
本来オープン、フェアであるべき市場で、ズルをして儲けている人間がいるなら、それを告発するのがメディアの役割である。"SWEET BITTER GENERATION"とかいう訳の分からない肩書きで、『DOLL』の紙面に上がって提灯記事を大量生産するということは、すなわち魂を売ることだ。だが、それも仕事だ。そう割り切るしかない。
・・・ライターと呼ばれる連中の装飾過剰で不気味なほど無内容な文章、アーティストに対する批評性どころかヨイショ以前の世間ばなしをそのまま載せたインタヴュー。そして、何よりもそうしたものを支える読者とアーティストを馬鹿にした姿勢にやり切れなさを覚えたのだ。・・・
(ロッキング・オン 88年2月号)
渋谷陽一のメディアやつあたりA
矮小な機能主義が生むもの
第4章 メディアやつあたり
いつの頃からか知らないが、日本のロック・シーンにおいて、アーティスト専属ライター制のようなものが定着してきた。特にビッグ・セールスを記録するミュージシャンにはかなりの比率でそうしたライターがつくようになってきたようだ。大物アーティストの場合、インタヴューや取材のチャンスを作るのはなかなか難しく1人のライターが一回の取材で何誌かの記事を書き分けるというのはそれなりに合理的な発想である。また、専属ライターになれば、対象アーティストに対し密な取材が可能になり、情報も深いものになっていく。そう考えれば、なかなか素晴らしいシステムのような気がするが、現実はむしろ逆である。
独断と偏見で言わせてもらえば、現在の専属ライター制を支えているのは、プロダクションの戦略と、メディアの怠慢である。プロダクションから見れば、専属ライター制はいいことだらけだ。まず、第一のメリットはライターを通しての情報コントロールが容易になる。取材対象の記事をメディア毎にいちいちチェックするのはなかなか困難であるが、親しいライターに任せておけば安心である。また、専属ライターにしておけばネガティヴな情報を流される恐れはなく、これまた安心していられる。その上、一回の取材で何誌にも振れるから、スケジュール的にも楽である。一方、メディアの側からすれば、取材スケジュールをなかなか取れないアーティストもライター制を利用すれば、それなりに記事にできる。たとえ、他の雑誌と似たような内容になっても、そこはそれ、割り切ってしまえば楽である。そこで、どの雑誌を見ても、同じような記事がゾロゾロと並ぶことになる。このブタのような状況を作った責任は無論メディアの側にある。ジャーナリズムとしての自覚はないのか、などと青臭いことを言う気もないし、もともと日本の音楽誌にそんなもん期待していないが、それにしてもカッコ悪すぎないか。プロダクションの理屈に結局押し切られているだけじゃないか。メディアもメディアだけど、嬉々として書いているライターもライターだよな。だいたい、このライターって表現が未だに馴染めないんだけど。確かに、音楽評論家って表現も相当カッコ悪いけどまだそのカッコ悪い分だけマシという気もする。
日本においては、インタヴューという取材スタイルはあまりジャーナリスティックなものとして定着していない。これは日本のロックに限らず、メディア全般に言えることだ。対決型の会話を好まないという日本人の国民性から来るものなのだろう。その、最もチープな典型が日本のロック、ポップスのメディアに展開されている。よくこれでは芸能誌と一緒だとか言われるが、変にアーティスト扱いしている分だけタチが悪い。ライターの原稿と本人の発言を読むと、まるで日本のロック史を変えそうな勢いがあって、いったいどんな音なのかと期待すると、とんでもないもので椅子からズリ落ちてしまうパターンばかりだ。まったく、お前たちには恥という発想はないのかよ。・・・
(季刊渋谷陽一 ブリッジ7号編集後記 95年8月)
専属ライター制はブタだ
第5章 まえがき・あとがき
『ロックはどうして時代から逃れられないのか』
渋谷陽一 (著)より
「CDばら撒きGIG」って、いつの時代の発想だ? ラフィン・ノーズの時代かよ(失笑)。今は、良心的なレーベルならば、サンプラーCDなんて無料でカタログと一緒に送付するインターネット時代だ。わざわざ高い交通費と入場料を払わせて会場へ取りに行かせるものじゃないよね。そんなCDを配る金銭的余裕があるのならば入場料を欧米並に安くしてくれ。
「日常を鋭く批判すること、偽善性の皮をはぐこと、堕ちていくことの真実を体現すること等の存在としてパンクはある」と、森脇美貴夫は言っていた。
人々がゆとりのある生活を満喫しているような国にパンクは根付かない。パンクを作るということは、すなわち、パンクとは時代を反映しなきゃいけない。彼らはそこまで行ってないよ。永久に行かないよ。古い『DOLL』的価値観が刷り込まれているからね。川向こうというかさ、『DOLL』で培ったことが。所詮今でも『DOLL』人間だから。染み込んじゃっているんだよ、肌の底まで。今のインターネット時代に合ったパンクをPogo 77が創造なんかできっこないよ。最後は自分に染み込んだものにさ、人間は支配されるんだから。だからPogo 77というレーベルは、飽くまでもドキュソOi村のレーベルなんだよ。Pogo 77は最もドキュソOi村という例えが似合うレーベルですよ。日本のパンクの現状をぶち壊そうとして、"Kill the DJ"を出したんじゃないの? それなのに彼ら自体が最もドキュソOi村だよ。Pogo 77の中のパンク像は、「Oiがオラの村にやってきたぞ」的な、何ていうか、ドキュソOi一座の親方みたいなもんだな。お前らこそ、今の時代に何のイニシアチブもないぞ。Pogo 77のやったことの中で唯一認められたことはCDの値段を下げたこと。その一点だけしか評価できないよ。
サラリーマンでいれば、それはある意味で楽なんですよ。レコードだってライヴ通いだって、欲しいものがすぐ手に入りますしね。サラリーマンで「パンク」をやろうと思ったら大変ですけれど。でも逆に言えば、サラリーマンでいる限り危機感が欠落するとも言えるんです。文化が発展するには、ある種のハングリー精神が必要だと私は思います。
しまいにゃ、DOLL Qに「ドキュソOi一座の親方」とおちょくられ、Allegianceには「77だろうが82だろうが、そんなのみんな一緒だわい」と歌われたり、まあ考えてみれば、かわいそうな人たちなのである。
ジョーは、自分の「パンク観」について、「NME」のポール・モーリーにこういっている。
「今じゃパンクっていえば、『知っているわ、お母さんにズボンにチャックをたくさんつけてもらってさ、コックニーなまりでしゃべるんでしょ。ヴォーカルはまじめに歌わないし、ギタリストもわざと退屈そうに弾いてるの。でもテンポだけはめちゃくちゃに早いの。それがパンクなのよ。最高!』ってもんさ。最近じゃスノッブなやつまで出てきてる。
「おれたちはパンクを、物真似の対象にしたり、既製のイメージで見たりはしたくない。モッズみたいに、何もかも、相手が受け入れやすいように、前もって計算し、計画するようなものにはなってほしくない。
「おれは変人の味方、いかれたやつの味方、極左の味方、一人一人の個人の味方だ」
『クラッシュ伝説 THE CLASH』
ジョン・トブラー&マイルズ (著), 中江昌彦 (翻訳)より
(2004年11月某日)
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