警告
"Japan could have a freedom of speech, but large parts of it choose not to be that."
「日本では言論の自由は可能なのに、消費者の大部分は自らそれを放棄している」
「危うく人を殺しそうになって、やっとほかに暴力と戦う方法があるんだってことに気がついたんだ・・・暴力に暴力で対抗しても無理だってわかって、しばらく頭が混乱してたよ。おれたちの蒔いた種がどうなったかを見りゃ絶望するしかないしね。もし、おれたちが、ああいう生意気なガキのために、がんばってきたんだとしたら、何もしなかったほうがまだましだったってことさ」
「観客の一人を殺したり、かたわにしたりするような可能性のある状況に追い込まれるのは御免さ。おれたちはそんなことをしようと思っているわけじゃない。とにかく、おれたちがやってきたことは、ろくなことじゃなかったと思うね。結局は何もしなかったようなものさ」
『クラッシュ伝説 THE CLASH』
ジョン・トブラー&マイルズ (著), 中江昌彦 (翻訳)より
・・・それはともかくとして、彼らが日本の学生に比べて知識においてはかなり見劣りするのに、精神的にははるかに成熟しているように思われるのは、面白い現象だ。問題なのは、この差異が学生間だけに止まらず広く一般人にも認められることだ。暗算がロクに出来ない主婦でも、考えることは驚くほど堅実でしっかりしているし、政治家やスポーツ選手などのインタビューを聞いてみても確かに明晰で、筋の通った話をする。平均的な日本人とアメリカ人を集め、知識に関する試験をしたらアメリカ人が劣等に見えるだろうし、話し合いになったら日本人はまるで太刀打ち出来ないだろう。この差が教育によるところは明らかである。どちらの教育にも一長一短はあるが、一つだけ感ずることは、知識というものは、必要になれば学校で教わらなくとも自然に身についてくるものであるのに反し、論理的な思考方法とか表現方法は、若い時に身につけないと後になってはなかなかむずかしいということだ。しかし、この問題は、日本では受験地獄という社会現象(その善悪は単純でない)と密接に関連しているのできわめて複雑であろう。・・・
『若き数学者のアメリカ』
藤原正彦 (著)より
デーブ 「・・・何ていうのかなあ。結局、日本人は自分たちを単一民族だと思いこんでいるよね。理屈では南方系とか大陸系とか言うけど、やっぱり感覚としては単一だという思いは強いよね。ひと昔前までは、航空機事故が海外であったとき、日本人乗客がいないときにはニュースでは『幸いにも』という形容詞を使っていたらしいね。異物を排除しよう、自分と違う者は仲間はずれにしよう・・・という感覚はやっぱり相当強く持っているという気がするよ。それと、とにかく市民主体の革命が歴史的に一度もなかった国だからね。人権への意識はやっぱり相当に低いと思う。獲得してこなかったものだから、与えられてきたものだから、民主主義や人権についての意識が本当には身についていないよね。それはよく感じるなあ」
『放送禁止歌』
森達也(著), デーブ・スペクター(監修)より
尊き「言論の自由」、「批評・評論の自由」を暴力で捻じ伏せようとする輩へ
こんなこと俺にわざわざ書かせるなよ。
最近他バンドなどのホームページに当ホームページ名を故意に語り誹謗中傷する書き込みが多発しています。敵意のある第三者による物と思われますので、削除、無視して頂けます様宜しくお願い致します。基本的にネットのような相手の顔の見えないところで、誹謗中傷や敵意のある内容の書き込みをすることは一切ございません。特に言いたい事、伝えたい事がありましたら、当ホームページで確固たる論拠を示して言及しています。いいか、俺の名前は「俊宏」だ。略して"Toshi"だ。わかったか、人権侵害のボンクラども。まったく見当外れな関係の無い第三者の名前をでっちあげて誹謗中傷活動している頭の足らない輩がいるみたいだけど、「名誉毀損」と「損害賠償」で訴えられる前にやめとけ。それ俺じゃないからさ(爆笑)。警察の厄介になりたくなかったら、削除依頼出して責任とれや。
「あいつはTOEIC 700点以上だから、あいつが書いているに違いない。さっそく縛り首だ」というのは「恐怖政治」というもので、北朝鮮は「恐怖政治」の国として有名ですが、それが罷り通るような世界は、ヴァンダルに滅ぼされた古代ローマみたいなものです。ヴァンダルとは、文明の産物を「文明的だ」という理由だけで打ち壊した蛮族のことです。現代のヴァンダル、それが日本のパンクだ、という見方が必要じゃないでしょうか。
批判を公にするというのは、読者の方に向いて発言して、読者を審判者として、評価を読者の判断にゆだねるってことであって、互いの言論をなるべく多くの人たちの前に開こうっていう姿勢だろ? それが公共の言論活動なんだから。それを「さっそく縛り首だ」と言う手合いは、「公共性」というものをどう考えているのか、全然わからないね。
こんな影響力の無いちっぽけなホームページごときでギャアギャア騒ぐ連中は、はっきり言って先に「某数字ちゃんねる」などの無責任匿名誹謗中傷掲示板をどうにかしてください。このホームページと違って、すごくえげつない批判とか中傷とかがされていますよ(苦笑)。それとも、オレの才能に嫉妬でもしているのかね(爆笑)。ネットの中では、自分がたまたま見ないだけで、全然知らないところで、誰かが何かをいっていたりするわけです。匿名でいいっぱなし。まして議論には発展していかないですね。
現在、日本のインターネットなどで見る議論には、二つのパターンがある。一つは、うんこチンチン・ドキュソOiのBBSでやっている、村の寄合い的な「仲良しごっこ」である。もう一つは、「某数字ちゃんねる」のような激しい名誉毀損型の誹謗中傷掲示板である。どちらも、ディベートではないし、討論や論争とはいえない。
両者に共通しているのは、第一にルールがないことである。第二に参加者にディベート能力が欠落していることである。すなわち、議論や討論の技術が無い。知識もない。特に、二番目の能力や技術が無いというのは致命傷である。これでは正しい議論や討論や論争にならない。
当ホームページに書いてあることが気に入らないのでしたら、そんな卑怯な真似はやめて、当ホームページを相対化するホームページでも作ったらいかがでしょうか。バカの講釈でも聞いてみたいね。まあ、そんな知能も文章力も持ち合わせていないんだろうけどね(笑)。オレのことをあーだ、こーだ言うんじゃなくて、オレが要らないくらいにテメーらで面白くしろ。「恐怖政治」じゃあるまいし、欧米のようにもっといろいろな意見・議論があってもいいと思います。そういう風に議論というか反論しあうということが大事であり、反論の機会も奪うような言論弾圧を関係者がしばしば行うことには十分注意をしなくてはいかんと思うのですが。
要するに、そういう関係者にとって、シーンはコネと情実に基づく人間関係でしかないということなんだ。こんな議論のないシーンがまかりとおるということは恐ろしい話で、世界的に見ても異形なシーンだね。言葉は重要な要因であるのに、臭いものに蓋をして、このテーマはちょっと拙いから先送りにしておこうなどということを日本はよくやる。日本のシーンも、もっとグチャグチャになったほうが面白くなると思うよ(笑)。自分たちに都合のいいことだけを書かせ、臭いものに強引に蓋をさせる部分が日本のパンクにあるとしたら、それは危険な驕りだ。
日本の多くのエセ評論家のように、せせこましい視野狭窄で、自分を正当化できるものだけを読み、それ以外のものについては読まないどころか、嫉妬心や敵愾心を燃やす。そういうところが、どんどんおぞましい状態を作り出している。その端的な例が、今度の当ホームページをめぐる論評について、いくつも出てきてしまったのだと思う。
大体において日本人は、きちんとした論争ができないと言われる。たしかに、事実と論理で問題を腑分けしていくことをせず、すぐ「あいつはどっちの側の人間だ」という決め付け方をする人が多い。相手の論理の弱点を突くというのではなくて、その口の利き方はなんだ、といったような争いになってしまうという経験は、誰でもあるだろう。
僕の意見では、討論をできるような人材はほとんどいませんね、この国には。だって自分が批判されたとき、「なるほどね」とまず応え、次に「君の意見は、こういう条件つきなら正しいと思うよ」と話を前に進めたり、相手が言い淀んでいるとき、「君は本当はこう言いたいんじゃないのか」と助け舟を出したりする芸というか余裕を持っている者が少なすぎる。みんな自分のちっぽけな面子にこだわって、自分を守ることに必死、相手を言い負かすことに懸命といった様子ですね。そんな連中と話し合う酔狂はもう僕には無い。
言い訳のように自分の中にも「ハードコア・プライド」があるとか言っているけど、あそこまでバンドに対して批判するなと箝口令を敷こうとする。どうせそんな箝口令が敷けるのは、小さな小さな保守インターネット村の中だけですよ。その外の世間では全然関係無いんだから。狭い、こうしたインターネットの中だけに箝口令を敷かねば気が済まないと考えるその感覚というのは、完全に日本のパンクは恐ろしいという「恐怖政治」に転向している。自分が変わって元に戻れよ、目を覚ませよと言いたくなります。
日本って、やっぱり真の言論や表現の自由が無い国だね。表向きは西洋の真似をしているが、この国を、この社会を支配しているのは、住んでいる日本人も認める江戸時代そのものだった。
「物を言わない日本人」というイメージは、海外諸国でもかなり定着しており、不気味な要素となっている。日本国内でもなかなか自分の意見を主張する機会が無いということは、よく話題にされている。日本の社会では、白黒をはっきりさせることは避ける傾向があるし、どちらかであると言い切ることは単純過ぎると考える傾向があるように思う。それよりも、状況を「黙って」判断し、様々な立場や反論を前もって予想して、「根回し」をして、うまく丸く事を運ぶのが一般的なやり方なのである。人前で意見を、特に反対意見を言うことは、いたずらに「和」を乱し、収まるものも収まらなくなってしまう。だから、意見を言う前に、意見を持つことに意欲が出ないのだろう。つまり、意見が無いというよりは、意見を構成するところまで至らないということであろうか。
日本の意思決定システムは集団主義による閉鎖型意思決定システムである。集団が集まって密室で話し合い、談合して物事を決定する方式である。当然ながら、個人の意思決定能力は、あまり問題にはならない。集団が何を決定したか、いかに合意ができたか、いかに和が保たれたかが大切なのである。
ただ非常に難しいのは、日本の社会構造の基本が、やはり農村共同体なのだ。農村的な社会というのは、飽くまでも皆が揃って田植えしないと米が出来ない、揃ってやらない奴は村八分にしないと村の安寧が保たれないというような社会であり、そういう精神風土が未だに尾をひいている。
これは、近代資本主義社会における独立した市民が言うことではないと思う。「隣百姓」の発想そのままではないか。隣が田植えを始めたら、うちも始める。隣が刈り入れたら、うちも刈り入れる。「隣が」「みんなが」という発想は、すなわち「みんな(自分達)と違う奴」を排除していく論理につながる。自分が属する小集団の秩序を守ることを全てに優先させる、ムラ社会の論理だ。
日本の社会というのは、人間関係が過度なまでに濃密で、常に序列とか力関係といったものに気を配って生きて行かねばならず、阻外されることが何より怖いという「ムラ社会」である。日本の厳しいムラ社会は、日本人の中に奴隷根性を植え付けていた。奴隷根性とは、度を超えて相手の顔色を見ながら自分の進退を決める、心の持ち方である。
民主的な組織の運営とは、みんなが活発に自由に議論することである。誰に遠慮も無く自由に意見を述べ合うことである。無口な人も先輩も後輩も、地位も肩書もなく自由に発言の機会があることである。これは簡単なようであって簡単でない。しかし、組織の活性度をはかる最高のバロメーターである。言論の自由と機会のないところに人間のやる気は存在しない。表面的に平穏であっても、それは奴隷の平和である。
みんながやってる通りにやっておればよい、という発想でしか動けないようなコミュニティには、誰も積極的な意義を感じなくなるのである。問題は日本人のメンタリティそのものにあるのかも知れない。
日本は、いままで農村的な横並びで来たが、韓国人やイギリス人と一緒に仕事をする以上、個人主義を定着させる努力が必要になる。しかし個人を尊重するといったって、尊重すべき個それ自体がない「ドキュソOi」にとっては、寄るべきところが無い社会なのだから、非常に辛いことになるだろう。皆が手をつないで行くぶんには、皆で渡れば怖くないから、現在のままのほうが楽は楽なのである。そういう意味で個性のない「ドキュソOi」には物凄く生きにくい社会になる。のたれ死にするかもしれない社会になるのだ。本当に「ドキュソOi」が国際的に活躍したいと思えば、否応無く日本とは違った価値観の中に身を置かなくてはならない。
では、そもそも国際化とは何であろうか。難しくも何とも無い、自分の言いたいことをはっきりと相手に言うこと、これに尽きる。日本が国際化から大きく乖離しているのだとすれば、それは、本当に自分が言いたいことを言わない、言えないからに他ならない。
日本人は論争を引き起こすようなことを言うのを、恐れているんでしょうか。グループを離れて、自分だけがこういう意見を持っているんだということに恐怖心を抱くんです。しかしそれは、いけません。どんどん発言すればいいんです。
相手の言い分を否定すると、論争になって気まずいことになるとか、相手を傷つけるとか、気を遣い、遠慮をする。そこで、その場しのぎの、気を持たせる言い方をすることが往々にしてある。結果的にはそれが誤解を生み、後になって「話が違う」と相手を怒らせることになりかねない。英語では、はっきり自分の考えと結論を伝えなくてはいけない。「いやだ」、「できない」、「私はそう思わない」等々の表現を明確に言わなければならない。そう言ったからといって、気まずくなることはない。英米人は、むしろ、率直にYESとNOを言ってもらうことを好む。相手の意思がどこにあるか、きちんと把握できるからである。
議論は言葉のボクシングであり、知的なケンカである。本当のケンカではないので感情的になる必要は無いが、白黒の決着はつけねばならない。全ての人の顔を潰さず、玉虫色の結論で四方八方を丸く収める日本的方法は、むしろ禍恨を残す。「和をもって尊しとする」式の日本的考えは、欧米では通用しない。
私は、ことさらに議論の好きな人間ではないが、しかし、必要な議論を避けることだけはしないつもりでいる。欧米の教育では、いわゆるディべイトを正式なカリキュラムとして構え、各自の好みに拘らず虎と獅子のどちらが強いかなどという議題で論争のための論争をさせて、子供の将来に備えさせるそうだが、日本の場合には、議論はどうも処世に必要な術とは目されておらず、まして美徳とはとても考えられてはいない。
英米の人々は、学生時代からこうした「ディベイト」で、自分の意見や立場を効果的に表現する技術を学ぶから、議論する時にも物怖じすることが無い。イギリスにしても、アメリカにしても、多民族が寄り集まって国を作っているわけであるから、日本人同士のように「以心伝心」などあり得ない。従って、自分の立場を他人に分かってもらうには、言葉を尽くして私見を述べ、納得させるしかないのだ。
いつも黙って、ニコニコしているのが通り相場とされている日本人の中で、私が、たまたま私としては当たり前の、それも自腹で買ったCD・レコードの内容を論拠に物を言えば、それでもなお挑発的ともされる節もあるが、理解する者は理解してくれるし、そこにこそ新しい友情も生まれてくる。
「名無し顔無し」の日本人ではなく、一人ひとりが名前と顔を持った人間で、それがたまたま日本人であった、というふうになっていいのではないか。みんなと同じ事をしない人を爪弾きせず、他人の失敗を笑わず、自分の頭で物を考える人を大事にするべきではないか。マス・メディアや道具に使われず、自分の手を使い、道具を使いこなして、自分自身の生き方を考えるときではないか。日本人がこれまで疑いを挟まずに追及してきた一点集中型メディア信仰、バンドの大安売り、大量使い捨て文化の是非を考え直してみるべき時ではないか。
誰かが抵抗しないと世の中は変わらないのです。日本のパンクは「恐怖政治」だからと長いものの言いなりになると、世の中は利己的な人の天下になります。誰かが立ち上がらなければならないのです。日本という国も国民も、ずーっと長いものに巻かれてきました。でも、当否は別として真珠湾攻撃の時は堪忍袋の緒を切るという挙に出ました。江戸時代だって、吉良上野介に我慢できず、切腹覚悟で飛びかかっていった赤穂の殿様もいます。
権利は、あたかも真理のようにあらかじめ存在するものではなく、闘い取るものである。そして、闘うことを止めれば権利は自動的に消失する。なぜならば、世の中は権利を付与させまいとする者とそれを闘い取ろうとする者との絶えざる拮抗関係のなかにあるからだ。
他人様からお金を払って頂いているくせに、いや「恐怖政治」だなんて恫喝、脅迫するんだったら、実名挙げてこのホームページで徹底的に糾弾するけどいいか(笑)? しかし、これで良識のある人々はファンをやめるでしょうね(笑)。見ず知らずの他人から批判・批評されるのが嫌だったら、一丁前の値段つけて市場で売るなよ(値段をつけて市場に出すということがどう言うことか知ってるのか? 対価を支払って購入して頂いた御客様に対しては、後はその商品を煮るなり、焼くなり、売り払うなり、捨てるなり、どうぞ法律の範囲内で、お好きなようにしてくださいということだからな。おまえ、そんなことも知らないのか。バンド活動やめちまえ!)。
肯定的であれ否定的であれ、自分の意見を言うことの何処がいけないのでしょうか。自覚的に「王様は裸である」と、事実を事実として指摘するのは「失言」でも何でもない。我々は、苦労して得た貴重なお金を払っているのですから、それが金額に見合わないと思った場合、逆に金額以上に素晴らしいと思った場合、自分の意見を言う資格・権利があります(自分の頭でしっかり考えた奴には権利もあるだろうけれども、何にも考えていない奴には、何の権利もない。それでどんな不都合があるんだ)。
日本のパンク内で黙っていることは、とても利己的なことだ。意見を言わないということは、自分に敵を作らないことを第一としている。自分さえよければいいということだ。敵を作ってでも、もし日本のパンクのために利益になるかもしれない考えが浮かんだら、どんどん発言するべきだ。日本のパンクに関わる人すべてが、すぐに決定して行動しなくては競争力がなくなる。
レコードを買った消費者の気持ちも考えないのか、おまえは。裏切りだぞ。詐欺だぞ。「ドキュソOi」は詐欺。詐欺は罪なんです。アウトなんです。我々は、与えられた餌を黙々と食べるだけの家畜ではない。民主的なプロセスでは、批評家・評論家は自分自身の信念を貫く必要があると思う。批判される可能性を避け、批評・評論するのは簡単なことだったが、私は自分の良心に従って批評・評論することを選んだのだ。
当ホームページの記事がたとえ「誰かの感情を逆撫でする」ものであろうとも、そうした記事を書く自由だけは断固として守らなければならない。こんな道理もわきまえない奴をメンバーにいただいているようなバンドは、パンクじゃなくて
「全体主義・言論弾圧パンク」
とでも改名するがいい。
金が彼らの唯一の目的です。自分たちの利益を擁護しているだけで、日本のパンク全般の利益を考慮に入れていません。圧力団体だと自ら宣言したようなものです。
もしも、何の反発も、反対も受けず、間断ない検討にさらされていないのならば、どんなに完璧な思想、信条といえども、次第に自家撞着に陥り、腐臭を放ちはじめるでしょう。それは『DOLL』、日本のパンク・シーンも同じことで、強い批判勢力があってはじめてシーンは健全な発展力を維持できるのです。逆に言えば、こうした批判や反対勢力を過度に抑圧したり、あるいはそれとの対面を避け続けていては、到底シーンとしての活力は維持できません。さらに言えば、こうした批判的勢力を生むほどの活力を持てないシーンは、かなりの度合いで生命力を失っている、と言えるかもしれません。こうした視点に立った時に、当ホームページもまた、その信念だけでなく、そのカウンター、対立者としての役割においてシーンに大きな貢献をしている、シーンのためになっていると言えるのです。というよりも、「シーンのため」という視点は、これほどの広さを前提とするべきだと思うのです。
当ホームページはいささか辛口ではあるものの、確固たる論拠を示して論理的に批評・批判をしています。トップ・ページの一番下にある「ご利用条件」をよく読んで頂き同意していただいた方だけがご利用下さいとも書いてあります。ルールを守れない方がいるようでしたら、今後、完全パスワード制にするなどして著しく利用を制限しますのでよろしくお願いします。なお、犯罪に該当するような悪質な場合は刑事告訴も辞さない構えでいますのでよろしくお願いします。
Toshi
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